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 著者:大人の事情 ※大人の事情により、著者の実名は伏せさせて頂いております。
 

 

偉 人 余 話

 こんにちは。このページは介護の仕事に携わる私が、日本史を愛してしまったが為に色々な文庫を読み漁り、各地の偉人記念館に足を運んだ末に知ってしまった逸話を御紹介しつつ、私なりの見解を述べたページです。

介護とは全く関係のないページなので、マメ知識を増やしたい方のみ御一読あれ。


第7話  「虚」と「実」(後編)


 季節は初秋。日の出は近い。川中島一帯は静寂として、明くる9月10日の夜明けを待っていた。奇策の成功を疑わない信玄は、別働隊の攻撃によっておきるはずの人馬の悲鳴を今か今かと待ち、対する謙信は、待ち望んだ夜明けを前にして、馬上、武者震いしていたことであろう。双方、この対決で因縁の終止符を打つつもりである。狙う獲物は、お互いの「首」一つである。

 この時期、この地域一帯の早朝は霧が深い。二人が待ち焦がれた決戦の朝を迎えることは出来たが、濃霧の為に周りは殆ど白一色の世界であった。その為信玄は、目の前に謙信軍が迫っていることに未だ気付かないでいた。次第に霧が晴れ、周りが見え始めてきて初めて、目の前に謙信軍が意気揚々と陣取っていることを知った訳である。

 一番驚いたのは、信玄本人であったろう。しかしこの智将は瞬時に、自軍の奇策が見破られたことを悟り、咄嗟に次の行動に移ろうとした。前編にも記したように、別働隊に多く兵を割いた信玄の武田本軍は総数8千、片や謙信率いる上杉軍は総数1万3千。戦上手と言われた両雄であったから、単純に数で劣る信玄軍が圧倒的に不利であった。信玄の頼みの綱は、妻女山に向かった別働隊の帰陣である。

 その別働隊が異変に気付き、馬首を回して妻女山から駆け戻ってくるまでの間を、なんとか凌がねばならない。信玄は、慌てふためく将校に檄を飛ばしつつ、最も防御に適している陣形の一つである「鶴翼の陣」を布くよう下命した。一方、謙信軍は「車懸りの陣」である。余計な細かい説明はここではしないが、「車懸りの陣」とは超攻撃的な陣形である。兵の士気からみても、面食らった信玄軍のそれとは雲泥の差であったことが知れよう。

 「攻撃は最大の防御なり。」という名文句があるが、この時も同じことが言えたかもしれない。奇策を用いて「虚」を演じようとして失敗し、防御に徹せねばならなくなった信玄に対し、謙信は奇策など用いず真っ向から信玄軍にぶち当たり、本来の戦らしい「実」を演じきった。

 この戦の勝敗は、知っている方も多いだろうが、前半は謙信軍、後半は信玄軍に軍配が上がる。詳細は書かない。この場合、結果よりも戦が始まるまでの二人の姿勢の方が大事である。実は、謙信にも「虚」を演じる機会は幾度もあった。例を一つ挙げてみれば、謙信が9月10日の夜明けを待たずに「虚」となる夜襲をかけていれば、奇策が見破られたことに相手は気付いていないのだから、大勝利を手にすることが出来たはずである。

 しかし実際には、謙信は奇襲を行っていない。理解しがたい行動ではあるが、謙信自身の「名誉」に関わる問題だったとしか思えない。それは、謙信が「実こそ虚に優る道である。」と態度で示した瞬間だったのではないだろうか。以後においても彼は、奇略等の「虚」を行わず戦い続け、「実」のみで勝ち続けたからこそ、「軍神」と呼ばれるに到ったのではないだろうか。

信じるか信じないかは、あなた次第・・・。                   


第6話  「虚」と「実」(前編)


 第6話は、昨年の大河ドラマ「風林火山」でも放映された「川中島の戦い」を御紹介したい。普通、「川中島の戦い」というと、武田信玄と上杉謙信による全5回に及ぶ戦のうち、第4回戦目のことを指す。最も激しい戦となったからである。

 信玄側の史料「甲陽軍鑑」によると、海津城に陣取る武田軍総勢2万と、妻女山一帯に構えた上杉軍総勢1万3千が睨み合う形となったが、双方動く気配が無かった為、しびれを切らした武田軍は軍師山本勘助の提案による「啄木鳥の戦法」を採用した、とある。(ただし、山本勘助が実在した武将だったかは不明である。彼に関する史料が少なすぎる為。)

 この「啄木鳥の戦法」というのは、啄木鳥が木の中にいる虫を食べる際に、穴の開いた方の反対側を嘴でつつき、その音に驚いた虫が穴のほうに避難してきたところを捕らえて食べてしまうという習性を、そのまま戦法に応用したものである。

 要するに、信玄は妻女山の裏手に別働隊を送り攻撃させ、それに驚いた謙信の軍勢が山から駆け下り、武田本軍の前面に現れたところを挟み撃ちにしようと考えた訳である。信玄は、本軍8千、別働隊1万2千と兵を分けた。ここで疑問が残るのは、別働隊の方に多く兵を割いたことである。普通は本軍を一番厚くするものだが、「まさかこの作戦が看破されるはずがない。」というような驕りであろうか・・・。そこまで詳しく理由を書いた史料がない為、今となっては解らない。

 しかもこの作戦は、謙信側に見破られていた。謙信側の史料「上杉家御年譜」によると、妻女山に陣をとった謙信側から、海津城にいる信玄側の様子は、手に取るようによく見えていたらしく、毎日の炊事の煙も見えていたらしい。信玄が妻女山の裏手に別働隊を送り込もうとした前日の炊事の煙は、いつもと比べると多かったというのだ。つまり、「決戦は明日になるから、明日の分の兵糧米も炊かせていた」ということになる。謙信は、武田軍が今夜中に行軍することを看破してしまった。

 「そんなことで作戦を見破られたのか。」と思われる読者もいるだろうが、当時の情報収集のレベルは、このような類が多い。ただその情報を「虚」とみるか、「実」とみるかによって、その人の運命を左右させていた。

 謙信は、この炊事の煙の情報を「実」とみた。「実」と信じ込んだら、人の行動は速い。夜になって謙信は、信玄側に知られないように全軍をもって妻女山を下り、川を渡って信玄本軍の前面に出て夜明けを待った。

 ここで面白いのは、信玄は奇襲をかけようとしているのに対し、謙信はあくまでも正々堂々と戦おうとしていることだ。見事に信玄の作戦を見抜いたにも関わらず、夜襲をかけずに夜明けを待つなど、普通の発想とは思えない。いつ、信玄の別働隊が戻ってくるかも解らないというのに、謙信は「武人の誇り」を最も大切にし、その心を揺るがすことなく朝を待ち、相手に宣戦布告をするつもりであった。

                                      
・・・続

第5話  宮 本 武 蔵


 第5話は、日本史上最も強い剣客だったと言われている、宮本武蔵について語りたい。
元々、剣客と呼ばれていた武士達が、世の中で大腕振って歩けるようになったのは江戸時代に入ってからである。それまでは、剣客=大道芸人という観があり、重視されないどころか、軽蔑されていた剣客が多かった。

 なぜかと言えば、江戸時代前までは世の中は戦国時代真っ只中であり、一個人の技術よりも、集団で統一された戦術が重視された。「孫子の兵法書」にもあるように、「数が多い方が戦に勝つ」と誰しもが考えていた訳で、個々の技術の争いなど、二の次であった。

 戦国時代は「国と国との争い」であり、江戸時代は「個と個との争い」が盛んになったと言える。江戸時代に入ると、各国を治める大名は争うように強い剣客を召し抱え始めた。強い剣客を雇う事で、自藩の株を上げようと思っていた大名が、少なからずいた訳である。剣の腕を見込まれて家康の直臣となり、その後、大名になった剣客も実際にいたわけだから、その注目度は日に日に増していたと言えるだろう。

さて、宮本武蔵。彼は、関ヶ原の戦いにおいて敗軍の一兵に過ぎなかった。勝軍による残兵狩りから逃れる為に、彼は山の中で一人、小動物を殺し喰らいながら生き続けた期間があった。この期間が宮本武蔵の精神(ここでは武士道)を作り上げたと言われている。現世との関係を絶ち、自己を見つめ直し、生きていくことの知恵を培った大切な時間であった。スタートが他の剣客とは全く違っていた訳である。

 彼は、29歳に至るまでに66回もの決闘を行い、勝ち続けることになる。「武蔵を我が配下に。」と望む大名もいたが、彼は終生、主を持たなかった。30代に入ると、きっぱりと剣術をやめてしまったのである。その後は自己修行とでもいうべきか、隠遁生活に入ってしまい、絵画、造園など、剣とは全く関係のない分野で活躍することになる。つまり、剣だけでなく、オールマイティーな天才だったと言えよう。

 そんな彼が、死の直前に記したのが有名な「五輪書」である。「五輪書」を読んだことがある方なら御存知だろうが、内容は、ズバリ「殺人方法」である。いかにして敵を殺すか、どのような殺し方があるか、である。先にも述べたように、江戸時代は既に戦争自体が無くなった時代である。隠遁生活に入っていたとはいえ、平和な時代に殺人方法を伝えようとする武蔵は、時代に乗り遅れた「過去の異物(異端児)」であった。

だからこそ彼は、自分が生きた時代では、さほどいい評価を受けず、死後において過剰なほどの評価を受け始める。現代では、「五輪書」を哲学のように受け止めている人もいるぐらいだから驚きである。

 では武蔵は、どういうつもりで「五輪書」を書いたのか。死の直前に書いたのである。それは自分で残そうと思った「墓標」と言えるのではなかろうか。自分が残せるのは、栄華を極めた若かりし頃の自分、つまり「自分の体験で知った殺人方法」であると・・・。

余談ではあるが、武蔵は「二刀流」として有名であるが、数ある公式試合において、その「二刀流」を使ったことはない。「二刀流」は実戦には不向きであることを、武蔵も知っていたのである。佐々木小次郎との試合がいい例である。「小次郎の長太刀に対抗するには、更に長い舟のオールを・・・。」と思い使ったに過ぎない。史実とは、知れば知る程むなしくなる点もあることを御了解願いたい。

  信じるか信じないかは、あなた次第・・・。                   

第4話  切腹の心得


 第4話は、幕末の志士達が頭を悩ませたと言われる「切腹」について語りたい。「切腹」とは、読んで字の如し、自分の腹を自分で掻っ切ることである。当時の諸外国人から見て、この「切腹」という行為は信じられぬ事であり、理解しがたい光景であった。当時のニューヨーク・タイムズ(アメリカの新聞)などでも大きく取り上げられており、「日本人は自分で腹を切る」「腹切り」などと露骨に書かれていた。

 日本史において、最も「切腹」が行われたのは戦国時代である。戦国時代は群雄が割拠していた世の中で、国の取り合いであった。国を取られた豪族やその家族、中心的な家臣団は殆ど「切腹」をしている。彼らにとって「切腹」とは最終手段であり、有終の美とも言える時も多々あった。戦国武将にとって畳の上で死ぬ事は避けたい事であり、「何処の戦場で死ぬか」又は「どういう死に様を見せるか」が重要課題であった。 戦国時代が終わり、江戸時代という「秩序に満ちた安泰の世の中」が訪れた。他国と争う事のない時代が訪れた訳である。当然「切腹」という行為自体が激減し、250年もの歳月の中で、その作法すら知らない団塊の世代が生まれた。親は自分の親から聞いた「切腹」の予備知識と、又聞きで聞いた情報を交えて、我が子に木片を持たせて簡単に教えるしか手がなかった。

 例を挙げてみれば、「赤穂浪士」を御存知であろうか。彼らは主君の恨みを晴らす為、討ち入りを決行し、見事成功したが全員「切腹」を命じられた。もとより、彼らは討ち入り前より「切腹」を覚悟していた。
問題は、そのメンバーの中で「切腹」の作法を知らない人間が多かった事である。「切腹」とは、人生最後の大仕事であり、段取りを間違える等、無様な姿をさらす訳にはいかない。彼らもまた、お互いの情報を頼りに「切腹」の作法を覚え、その場に臨んでいる。

 時は流れ幕末、世の武士の中で、「切腹」を見たことの無い側の人間が多かった時代である。しかし、見たことがないからこそ、この時代の武士達は創意工夫し、今まで誰もやった事のないような「切腹」を研究し実行しようとした。例えば、腹を十の字に切ったり、「右から左へ横に払った後、上へ突き上げると心臓に達する為、確実に死ねる」など、様々な切腹が研究され、且つ行われた時代である。
 武士の虚栄は、その最後にある。どう見事に腹を切れるか、いかに前例のない切腹法をやり遂げてみせるかにある。「俺はこういう男だ。」という事を、口で説明するのではなく、最期の場において示す「無言の表現法」といってよい。幕末、数え切れぬ程の志士達が切腹したが、ことごとく見事であり、その場において「切腹」することを恐れた者はいない。

 著者は、日本人に「死を軽んずる伝統があった」ということを述べているのではない。むしろその逆で、当時の日本人には「人間の最も克服困難といえる死への恐怖」を克服しようとしていた観がある。その鍛錬法の一つが、「切腹」の研究であり、それを創意工夫することであったと言えるのではないだろうか。
 彼ら武士達は、「死への恐怖」を克服することによって、精神や概念の根本を揺るぎ無いものとし、確固たる思想を持って、「倒幕」という日本史上最大の大仕事をやり遂げてしまったと言っていい。「死への恐怖を克服し自由を得る」という精神文化こそが「明治維新」という重い扉を押し開いたと言えるのではないだろうか。

 

 信じるか信じないかは、あなた次第・・・。                  


 第3話  悪ガキと猿


 さて、第3話は「戦国一の出世頭」と言われている羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)とその主人、織田信長の出会いに少しばかり触れてみたいと思う。

 一説では、秀吉は尾張(愛知県)中村という部落で生まれ育ち、あるきっかけを得て信長に奉公することとなり、草履取りという職務につく。この職務は、主人に毎朝顔を合わせる為、気に入られれば出世の近道となり得る仕事と言える。

 ある寒い朝、信長が草履を履こうとすると既に暖かい。「誰ぞ、我が草履を尻に敷いておったか。」信長は怒り、草履取りの秀吉を呼び出す。そう仕組んだのが秀吉の知恵で、「殿様のお足が冷えると思い、我が胸にて暖めておりました。」と弁明する。信長は「なかなか機転の利く奴。」と褒め、これによって秀吉の顔と名前を覚え、秀吉の出世街道が開ける、という話。


 しかし、この話には矛盾点が多く存在している。まず、草履取りという職務は主人に最も接近できる職務の一つである為、誰でも務まるものではない。

 必ず主人を裏切らない者、もしくは主人が襲われた時、進んで盾となる者でなければならない。

 上記に記した経緯によると、この時初めて、信長は秀吉を知ったことになる。氏素性も知らない者を、自分の身近に置くはずがない。

 だが、上記の逸話は真っ赤な嘘、という訳では無い。ただその前に既に、秀吉は信長と面識があり、草履取りになった時には「猿」若しくは「禿げねずみ」という愛称で呼ばれていた。(余談ではあるが、信長は、他人の特徴をつかむ能力に長けており、あだ名をつける天才でもあった)では、何処で二人は知り合ったのか。

 一つの逸話を御紹介したい。秀吉が最初に仕えていた人は、駿河の国を治めていた今川義元の家臣、松下嘉兵衛とも言われている。ある日、秀吉は松下に、「尾張へ行って鎧(よろい)を買いつけてくるように」と金を渡される。 (尾張は海岸沿いに位置していた為、船を使っての他国との貿易が盛んであった。よって、物品が進んでおり、戦国時代を代表する豊かな国と言っても過言ではない) 秀吉はその金を持って尾張に入国し、城下にて信長の噂を聞いた。そして今、信長が日の出の勢いである事を知った。噂を聞けば聞く程、信長に惚れ込んでいった。

 「この人こそ、我が一生を懸けて仕えるに足る」

 秀吉は決心し、主人から預かった金で古着や脇差を買い、信長が馬上にて路上を通行中、地面に額を当てて仕官を懇願した。仕官を許され、以後、雑用として勤務する事になる。

  ある日、信長は2階立ての門にのぼり、矢挟間から外を覗いた。すると、つい最近仕官した「猿」が竹箒(たけぼうき)を持って庭を掃いている。その真面目な様子がいかにも可笑しく、信長は悪ふざけを思いついた。


 信長は袴をたくし上げ、矢挟間の穴から「猿」めの頭めがけて勢いよく小便を飛ばした。外れることなく、小便は「猿」の面にかかった。「わが主といえども許せませぬ!」すごい剣幕で秀吉は信長に迫り、「武士の名において成敗つかまつる。」と脅した。


 さすがに信長も「やりすぎた」と思い素直に謝り、「明日より我が草履をとれ。」と許しを請うた。上記にも書いたように、草履取りになれば出世の足掛かりになる。秀吉は喜び、「それならば、許してあげましょう。」と無邪気に笑った。信長は、秀吉のその無邪気な笑顔が気に入り、以後も可愛がっていくことになる。

 そして、上記の「あたたかい草履事件」へと繋がっていく、という話。人と人との出会いは、何処で生まれ、どのように好転していくか解らぬものである。この話は、それを象徴している話と言えるだろう。

 信じるか信じないかは、あなた次第・・・。               


 第2話  毛利家の秘事


 第2話は、戦国時代に中国地方で約10カ国を支配した毛利家に少し触れてみたいと思う。御存知の方も多いと思うが、毛利家を大大名に仕立てあげたのは、毛利元就である。彼は多くの子供に恵まれ、私が知っているだけでも9人の男子を天より授かった。

 その息子達の中でも、嫡男の毛利隆元、次男の吉川元春、三男の小早川隆景は非常に優秀で、「三本の矢」の話を知っている読者も少なくないと思う。

 今回お話ししたいのは、嫡男の毛利隆元の「死因」についてである。

 実は彼の死因についての詳細は一切解っていない。ただ、「尼子氏との鍔迫り合い中に死去」としか記録にない。病死とも戦死とも暗殺とも書かれず、ただ「死去」とあるだけである。

 一般的には、大大名になればなるほど、一族の死因は事細かく記されるものである。

 しかし、彼の死因だけは細かく残さなかった。

 いや、残すことが出来なかったという方が正しいであろう。では何故、残す事が出来なかったのか。一つ一つ検証してみよう。

 一つ目、病死説。この可能性はゼロに近い。彼は若くして亡くなったが、当時の人々の平均寿命は40歳とみていい。志し半ばで病死する事は珍しい事ではなく、「病死」と記録上残しても何ら問題は無いはずである。

 二つ目、戦死説。これも可能性は薄い。当時の戦国武将にとって戦死する事は名誉であり、むしろ危機的状況にある戦場での「活躍の場」を求める武将が多かった。功名に繋がるからである。「戦死」と記録上残したく無かった理由が見当たらない。

 三つ目、他国の勢力による暗殺説。この可能性もゼロではないが非常に低い。前行に記したように「尼子氏との戦時中」に彼は亡くなった訳だが、父の元就の策略によって尼子氏は殆ど壊滅状態にあった。暗殺を指示できる目ぼしい武将も既に亡く、リーダー的存在の武将同士がお互いに牽制しあうという、亡国の兆しが既にあった。とてもじゃないが、隆元の身辺を調べる程の余裕は、皆無だったと言っていいだろう。

 全ての説を否定してみた訳だが、では本当の「死因」は何だったのか。私が思うに、

「毛利家内での跡目争いによる暗殺」だったのではないか。

 無論、毛利家と言えば兄弟間の仲が良い事で知られ、この暗殺は血の繋がりがある者の手で行われたものではない。

 先にも述べたが、当主の元就には9人の男子があり、腹違いの男子も含まれている。

 当時の毛利家は既に「中国地方の雄」と言われていた程の広大な領地を支配していた。嫡男として産まれれば将来は「本家の跡継ぎ」として希望に満ち溢れているが、遅く産まれれば遅くなる程、「分家」として分けてもらう領地も減る。当然、正室の子でなく側室の子(もしくは妾の子)の格式は低い。

 「我が息子に毛利家宗家を継がせてやりたい。」と思う妾がいても何ら不思議ではない。これは想像で言っている訳ではなく、同じような争いが実際に戦国時代には多数あった。例えば、豊臣秀吉の跡継ぎ問題(この話は後日に談ずるとしよう)、伊達政宗に至っては、実の母親に暗殺されかけた。政宗の母親は次男坊に「跡目」を継がせたかっただけで、我が息子の暗殺を試みたのである。現代人には考えられない心境と言える。

 もし「妾の先導によっての暗殺」が本当に実行されていたとしたならば、これは他国には絶対に知られてはならなかったはずだ。尼子氏との戦闘中でもあるし、周りを見渡せば、敵は数え切れぬ程にいる。「毛利家に於いて跡目争いが起きた」と敵が知ったならば、つけ入る隙を与えるだけだ。内部抗争に繋がることも考えられる。

 元就は思ったはずである。「これは絶対に他国には洩れてはならぬ。毛利家だけの秘事だ。」と・・・。

 信じるか信じないかは、あなた次第・・・。               


 第1回  竜馬の手鏡


 記念すべき第1話は「幕末維新史上の奇蹟」と言われた「坂本竜馬」について少し触れてみたいと思う。

 彼は幕末の風雲の中で「海援隊」という私設艦隊を作り徳川幕府の驚異的存在となるのだが、この時、隊員たちに対して「英雄の道」を説いている。

 その一つに、

「盗賊は、われ、世を見るの手鏡なり」とある。

 当時も現在でも盗賊(ドロボー)は同じ区域で何度も仕事をしない。同じ所に何度も出没していると「面」を他人に覚えられてしまう恐れがあるからだ。当時は横の繋がりが強く、よそ者の出入りには皆神経をつかった。「面」を覚えられたら「人相書」が出回り、御縄につく可能性がでてくるわけだ。

 竜馬の手下の盗賊も日本各地を周り、悪事を働いた。と同時に各国の城下町の風景、家並び、人口の多少にいたるまで記憶に留めただろう。つまり当時は、新聞やテレビなどは無く(地域によっては簡単な新聞はあったが)、情報の伝達は「おっそろしく」遅い時代であったから、全国各地をよく知っている人種第一級品といえば、盗賊だったのである。竜馬は彼等から沢山の情報を得て、倒幕の策を練ったと考えられる。

 勿論、盗賊という職業は今も昔も、人道に反していて悪行の一つと言える職業であり、彼らを使っていた竜馬自身も、その稼業自体は認めていなかったであろう。

 しかしその一方で、歴史上英雄と言われている、源 義経、豊臣秀吉、高杉晋作らの配下にも盗賊がいたことは事実である。現代人には理解しづらい一事ではあるが、彼らにとって、世間を知る上での一番の手鏡は、盗賊であったと認めざるを得ない。

 信じるか信じないかは、あなた次第・・・。               

     
 

 
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